1793年に父が亡くなった後、母は彼の教育を橋と道路部隊(Corp des Ponts et Chaussées)の技術者である叔父エミラン・ゴーティ(Émiland Gauthey)に任せた。 1802年、ナヴィエはÉcole polytechniqueに入学し、1804年にはÉcole Nationale des Ponts et Chausséesで勉強を続け、1806年に卒業する。 叔父の後を継いでポンツ・エ・ショセ部隊の総監督となり、

セーヌ県のショワジー、アスニエール、アルジャントゥイユでの橋の建設を指揮し、パリのシテ島に渡る歩道橋を建設する。 1824年、アンヴァリッド橋の設計で計算上の安全率を確保できなかったため、橋にひびが入り、解体を余儀なくされ、ナヴィエの橋づくりの名声は地に落ちた。 1824年、フランス科学アカデミーの会員になる。 1830年には国立橋梁学院の教授となり、翌年には亡命していたオーギュスタン・コーシーの後任としてポリテクニック学院の微積分学と力学の教授に就任した

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